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イスラーム世界の成立(ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝など) 受験対策問題 33
著作名: レキシントン
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イスラーム世界の成立で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

イスラーム以前のアラビア半島

イスラーム教成立以前のアラビア半島は、セム語系のアラブ人ベドゥインという遊牧民として暮らしていた。ベドゥインは様々な部族に分かれており、統一されていなかった。このイスラーム教成立以前の時代を「無名」「無知」の時代を意味するジャーヒリーヤと呼ぶ。

・この時代、アラビア半島西南部のイエメンに『旧約聖書』に登場するシバの女王が統治したサバー王国(紀元前950〜紀元前115)や、その後続王朝のヒムヤル王国(紀元前115〜紀元後525)、ヨルダン南部にナバタイ王国(紀元前4世紀〜紀元後106)などが存在していた。

・アラビア半島西部にはヒジャーズという地域があり、イエメンシリア・エジプトを結ぶ通商路が通り、オアシス集落や商業都市が生まれた。ヒジャーズ南部の宗教都市がメッカで、古くから多神教を祀るカーバ神殿を中心に栄えた。5世紀にメッカを征服したのち、カーバ神殿の守護権を獲得したのがクライシュ族で、ハーシム家ウマイヤ家が有力家系であった。

ムハンマドとイスラーム教の成立

・メッカのクライシュ族ハーシム家出身のムハンマド(マホメット)は、隊商交易に従事した後、610年頃アッラーの啓示を受け、預言者となった。ムハンマドがイスラーム教を創始すると、クライシュ族の大商人たちからの迫害をはじめたため、622年メッカの北300kmにあるメディナ(旧名:ヤスリブ)聖遷(ヒジュラ)し、イスラーム共同体であるウンマが成立した。このヒジュラを行った622年は、イスラーム暦(ヒジュラ暦)元年となった。

・ムハンマドは、信者とともに布教や征服活動を始め、630年にメッカを征服した後、632メディナで病死した。

・ムハンマドが創始したイスラーム教は、キリスト教・仏教と並ぶ世界三大宗教の一つで、唯一神アッラーを崇拝する一神教である。イスラームとは「神への絶対的服従」を意味する。イスラーム教徒は「神に身を捧げたもの」という意味のムスリムと呼ばれ、預言者ムハンマドがアッラーから授けられた啓示を記録したコーランを経典とした。コーランは650年頃、第3代カリフウスマーンの時代に完成した。イスラーム教徒には以下の様な教えがある。

六信

・唯一全能の神(アッラーフ)
・天使の存在(マラーイカ)
・啓典(神の啓示、キターブ)
・使徒・預言者(ラスール)
・来世の存在(アーヒラ)
・定命(カダル)

五行

・信仰告白(シャハーダ)
「アッラーの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。

・礼拝(サラー)
一日五回、メッカに向かって神に祈ること。

・喜捨(ザカート)
収入の一部を困窮者に施すこと。

・断食(サウム)
ラマダーン月の日中、飲食や性行為を行わないこと。

・巡礼(ハッジ)
メッカのカーバ神殿に巡礼すること。

イスラーム世界の成立と正統カリフ時代

・632年にメディナでムハンマドが病死すると、預言者ムハンマドの後継者としてカリフが選出されるようになった。カリフは、イスラームの教義や法を変更する宗教的権限は持っていなかったが、ウンマ(イスラーム共同体)を率いるための政治・社会的権限を受け継いでいた。11世紀以降にはスルタンが誕生し、政治的実権が移ると、カリフは宗教行事のみに参加するようになる。

・ムハンマド以降、初代アブー=バクル・第2代ウマル・第3代ウスマーン・第4代アリーまでを正統カリフといい、この時代を正統カリフ時代と呼ぶ。正統カリフ時代には、イスラーム世界の防衛及び拡大を目指したジハード(聖戦)が積極的に行われた。各地にはミスルという軍営都市が建設され、クーファ(イラク)・バスラ(イラク)・フスタート(エジプト)・カイラワーン(チュニジア)などが代表的なミスルとなった。

アブー=バクル

初代正統カリフ(在位632〜634)で、ムハンマドの義父であった。

ウマル

第2代正統カリフ(在位634〜644)。ジハードを積極的に行い、ビザンツ帝国からシリア・エジプトを獲得し、642年にはニハーヴァンドの戦いササン朝を破り事実上崩壊させた(651年に滅亡)。また、ヒジュラを元年とするイスラーム暦を採用した。

ウスマーン

第3代正統カリフ(在位644〜656)。ハーシム家と並ぶクライシュ族ウマイヤ家の出身。同族を優遇しすぎたため、暗殺された。

アリー

第4代正統カリフ(在位656〜661)。ハーシム家出身で、ムハンマドの娘ファーティマを妻に娶り、最後の正統カリフとなる。ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィアと戦ったが、最終的にアリーがムアーウィアとの妥協策を取ろうとしたことに不満を持ったハワーリジュ派によって暗殺された。

ウマイヤ朝の成立

・アリーが暗殺されると、ウマイヤ家出身のシリア総督ムアーウィアは、カリフを称してウマイヤ朝(661〜750)を開いた。これ以降、カリフはウマイヤ家の世襲となった。ウマイヤ朝は635年にイスラーム都市となったシリアのダマスクスを首都にし、対外戦争を続け、711年にはイベリア半島のゲルマン人国家西ゴート王国を滅ぼした。732年のトゥール=ポワティエ間の戦いではカール=マルテル率いるフランク王国に敗北したが、その後西北インドからイベリア半島、アフリカ北岸にいたる大帝国となった。

・ウマイヤ朝は第5アブド=アルマリクの時代に最盛期を迎えるが、アラブ人を優遇する政策をとり続けたため、さまざまな反発がおこった。イスラーム教徒は、アラブ人と、マワーリー(非アラブ人ムスリム)に分かれていたが、アラブ人はわずかな救貧税のみ、マワーリーはイスラームに改宗後もハラージュ(地租)が課せられていた。そのため、イスラーム教の平等の教えに反するとして、非アラブ人ムスリムの不満が蓄積していった。アラブ人が優遇された正統カリフ時代からウマイヤ朝までをアラブ帝国と呼ぶ。

・この他にも、啓典の民(キリスト・ユダヤ教徒)ジンミー(庇護民)などがいたが、ジズヤハラージュ(地租)の双方の支払いをすれば信仰の自由が認められていた。

・こうしたアラブ人と非アラブ人の対立のほかにも、暗殺されたアリーとその子孫のみをムハンマドの正統な後継者として認めるシーア派と、スンナ(ムハンマドの言行)に従い、代々のカリフを正当と認めるスンナ(スンニー)派の対立も激しくなっていった。

・シーア派はのちのファーティマ朝で国教となった過激なイスマーイール派や、穏健派の十二イマーム派などに分立した。

・ウマイヤ朝を認めないシーア派ハワーリジュ派、不満をもったマワーリーたちが次々と反乱を起こしたため、ウマイヤ朝は次第に衰退していった。こうした混乱の中、750ハーシム家の一族であるアブー=アルアッバースがウマイヤ朝を滅ぼし、新たにアッバース朝を開いた。

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