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魏晋南北朝時代(三国時代、五胡十六国時代、六朝文化など) 受験対策問題 22
著作名: レキシントン
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魏晋南北朝時代で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

魏晋南北朝とは

の建国からの統一まで、220年から589年までの時代を魏晋南北朝といい、様々な異民族が侵入を繰り返し、分裂の時代となった。

三国時代

・後漢末、曹操、劉備、孫権の三人の覇者が抗争した。208年に赤壁の戦いで曹操が劉備・孫権連合軍に敗れると、天下は三分にわかれた。

・曹操は216年魏王となり、その息子曹丕220年後漢の献帝から帝位を譲り受け(禅譲)文帝となり、後漢は滅亡、が成立した。文帝は九品官人法を実施し、中書省の設置を行った。

・220年の後漢滅亡と魏の成立ののち、221年劉備が蜀を、222年孫権が呉を建国し、三国時代(220~280年)が始まる。

国名特徴
魏(220~265)曹丕が建国。都洛陽を中心に華北を支配。263年蜀を滅ぼす。司馬炎に国を奪われる。
呉(222~280)孫権が建国。都建業を中心に江南を支配。晋に滅ぼされる。
蜀(221~263)劉備が諸葛亮孔明の助力をうけ建国。都成都を中心に四川を支配。魏に滅ぼされる。


・呉の都建業は現在の南京にあたり、東晋時代に建康に改名される。東晋、南朝も都とした。後世洪武帝により、明の都にもなった。

西晋の時代

・魏の重臣だった司馬懿の孫にあたる司馬炎が、当時の魏第5代皇帝曹奐に禅譲を強要し、魏は滅びた。司馬炎は武帝となり、新たに晋(西晋)を建国後、280年に呉を滅ぼし、三国時代が終わった。

・西晋末、恵帝が無能だったため、外戚が権力を握ろうとし、司馬一族の8人の王が挙兵した八王の乱(290~306)が起こった。八王の乱には、各勢力が五胡という異民族を利用したため、その後中国に様々な異民族が侵入するきっかけとなった。五胡とは以下の五族を指す。

匈奴48年に分裂。南匈奴は後漢に服属。八王の乱に乗じて劉淵が304年に漢(のちの前趙)を建国。
匈奴の別派で、319年後趙を建国。
鮮卑4世紀後半に拓跋氏がでて北魏を建国し、華北を統一。
チベット系の遊牧民。成漢、前秦、後涼などの国を建てた。前秦の苻堅は一時華北を統一。
チベット系遊牧民。青海地方に居住。


・311年~316年にかけて、匈奴を主体とする永嘉の乱が起こった。漢(のちの前趙)を建国した匈奴の劉淵の子劉聡が311年に洛陽の懐帝を、316年に甥の愍帝も長安で捕え、西晋は滅亡した。

・西晋の滅亡後、司馬睿が元帝になり、建康(旧建業)を都として東晋を建国した。

五胡十六国時代

・304年の漢(前趙)の建国から、439年の北魏による華北統一までを五胡十六国時代という。五胡十六国とは華北で興亡した五胡13国と、漢人の3国の総称のことである。

・匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族が前涼、西涼、冉魏、北燕をそれぞれ建てた。中でも氐が建てた前秦は3代苻堅のとき一時華北を統一するが、東晋に敗れ滅んだ。

南北朝時代

439年、北魏が華北を統一し、江南の南朝と、華北の北朝が並立する南北朝時代がはじまった。589が中国を再び統一するまで江南に4王朝、華北に5王朝が興亡した。

南朝

・420年、東晋の武将劉裕が武帝となり、東晋から禅譲されを建国した。東晋滅亡後、江南には宋・斉・梁・陳の4王朝が興亡した。これを南朝という。4王朝すべて都を建康とし、六朝文化が栄えた。

宋(420~479)東晋の劉裕が禅譲により建国。北魏の太武帝の侵入で衰え、8代で滅亡した。
斉(479~502)宋の武将蕭道成が禅譲により建国。7代で滅亡した。
梁(502~557)斉の皇族蕭衍が禅譲により建国。南朝文化の最盛期を迎えたが西魏の圧迫をうけ6代で滅亡した。
陳(557~589)梁の武将陳霸先が禅譲により建国。5代で隋に滅ぼされた。


北朝

鮮卑拓跋氏という部族出身の拓跋珪が386年に北魏を建国した。都を平城においた北魏は、第3代太武帝439年に華北を統一した。

・北魏第3代太武帝は、寇謙之を重用し道教を国教とし仏教を弾圧した。第6代孝文帝は、均田制、三長制、洛陽遷都、漢化政策を行った。

・五胡十六国を統一した北魏以降、東魏・西魏・北斉・北周の5王朝を北朝という。北朝は南朝よりも君主権が強く、さまざまな制度が確立し、隋・唐に受け継がれた。

北魏(386~534)拓跋珪が建国。第3代太武帝が439年華北を統一。第6代孝文帝が494年洛陽に遷都。534年分裂。
東魏(534~550)北魏の武将高歓が孝静帝を擁立し建国。都は鄴。北斉に禅譲する。
西魏(535~556)北魏の武将宇文泰が文帝を擁立し建国。都は長安。北周に禅譲する。
北斉(550~577)高歓の子高洋が東魏からの禅譲により建国。都は鄴。北周に滅ぼされる。
北周(556~581)宇文泰の子宇文覚が西魏から禅譲され建国。都は長安。北斉を倒すが、外戚楊堅によって滅ぼされ、隋が建国される。


魏晋南北朝の社会

・魏晋南北朝に入ると、前漢の武帝から始まった郷挙里選にかわり、220年、魏の文帝により、九品中正(九品官人法)がはじめられた。九品中正は門閥貴族をうみ、高級官僚が豪族に独占される様子は、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉で表された。

・税制も屯田制から280年西晋の武帝が占田・課田法、戸調式、485年北魏の孝文帝が均田制、三長制を制定した。

・東晋の成立以降は江南の開発が進み、水田稲作が普及した。

魏晋南北朝の文化

・建業(のちの建康で現在の南京)を中心とした呉・東晋・宋・斉・梁・陳を六朝といい、222年から589年までを六朝時代という。

・六朝時代に、長江流域の江南で栄えた貴族文化を六朝文化といい、仏教や道教の普及、清談の流行、詩・書・画などに優れた作品が残った。

清談とは、老荘思想に基づく哲学論議で、阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)の竹林の七賢が活躍した。

・この時代、南朝宋の范曄、西晋の司馬彪により『後漢書』が編纂された。

・書の世界では、新しい文体として四六駢儷体が南朝斉・梁時代に流行した。著名な文化人は以下の人物である。

陶潜(陶淵明)東晋の自然詩人。「帰去来の辞」「桃花源記」を残した。
謝霊運南朝宋の詩人。「山居賦」を残した。
昭明太子南朝梁武帝の長子で詩人。『文選』を編纂した。
顧愷之東晋の画家。「女史箴図」を残した。
王羲之東晋の書家。楷書・行書・草書を完成させ「蘭亭序」を残した。
酈道元北魏の地理学者。『水経注』を残した。
賈思勰北魏の農学者。最古の農書『斉民要術』を残した。
王叔和西晋の学者。後漢の張仲景が記した『傷寒論』を編纂した。


仏教の発展

・中央アジア経由で紀元前後に中国へ伝わった仏教は、魏晋南北朝時代に社会に広まった。北朝では国家に保護され、南朝では貴族層に受け入れられ、個人崇拝の性格が強まった。のちに儒教、道教とともに、中国三教となる。仏教普及には以下の僧侶が活躍した。

仏図澄(ブドチンガ)西域クチャ出身の僧。310年洛陽に着き、後趙で保護され、華北に仏教を広めた。
鳩摩羅什(クマラジーヴァ)西域クチャ出身の僧。仏教の経典を漢訳し、講説に努めた。
道安五胡十六国時代の仏僧。仏図澄に学び老荘思想を元にした格義仏教を否定し、仏僧の戒律を定めた。
慧遠東晋の僧。道安に学び、白蓮社を結成し、のちの浄土宗の祖となる。
法顕東晋の僧。経典を求め、399年長安を発ち、陸路でインドに入り、スリランカから海路で412年に帰国した。『仏国記』を記した。


・梁の初代皇帝武帝は、南朝の最盛期を作り、のち仏教に傾倒し、財政を破綻させた。

敦煌、雲崗、竜門など、著名な仏教遺跡が作られた。

・仏教は度々法難という弾圧にあった。北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武帝、後周の世宗らの「三武一宗の法難」が代表例である。

道教の成立

・中国古来の神仙思想や老荘思想、頂角が始めた太平道、張陵が始めた五斗米道(天師道)がもとになり、道教が形作られた。

・道教は、神仙思想、老荘思想、陰陽五行説、易、呪術、卜占などの要素からなり、太平道、五斗米道が宗教として組織され、その後北魏の寇謙之によって新天師道という教団が成立した。寇謙之は、北魏の太武帝に重用され、442年に道教の国教化や仏教弾圧を行った。

魏晋南北朝時代の諸王朝の興亡

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