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欧米の中国侵略 7 列強による中国分割、変法運動、戊戌の政変
著作名: ピアソラ
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日清戦争後の清朝


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日清戦争後、「眠れる獅子」として潜在的な能力を恐れていた西欧列強は、小国日本に中国が敗れたことで、清朝の弱体化を再確認しました。

西欧列強や日本は、鉄道敷設権鉱山採掘権租借など、中国の利権獲得により一層積極的になっていきます。

鉄道の敷設権や鉱山採掘権は列強資本の投下先となり、租借は中国の領土を一定期間借りることを指します。租借期間内では、租借地の立法・行政・司法権や軍隊の駐留が認められ、事実上期間が決められた領土割譲のようなものでした。


列強による中国分割

日清戦争後、下関条約で日本に割譲された遼東半島は、1895年にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉を受けて清に返還されました。

この三国干渉の見返りに、ロシアはシベリア鉄道に接続しウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷設権を獲得します。

また、ドイツは中国で起こった宣教師殺害事件を口実に山東半島南西の膠州湾を占領し、1898年に99年間の期限付きで租借し、青島市を建設、ドイツ東洋艦隊の基地にします。

現在でも有名な中国の青島ビールは、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行ったことがきっかけで設立されました。


このドイツの租借地獲得を受けて、再びロシアが中国に迫り、遼東半島の旅順・大連を租借し、南下政策の長年の目的だった不凍港を獲得します。

こうしたドイツやロシアの租借の成功を知ったイギリスやフランスも中国に迫り、1898年に香港の対岸九龍半島と山東半島東端の威海衛をイギリスが、1899年に広州湾をフランスがそれぞれ租借します。

こうして1899年ころには、ロシアが東北地方、ドイツが山東半島、イギリスが長江流域、フランスが広東・広西、日本が台湾の対岸の福建地方を獲得し、勢力図が決まりました。

租借地国名
膠州湾ドイツ
旅順・大連ロシア
九龍半島・威海衛イギリス
広州湾フランス
福建省日本


アメリカの出遅れと門戸開放宣言

同時期、アメリカも領土獲得政策に乗り出し、1898年にスペインとの米西戦争に勝利し、フィリピングアムを獲得しました。

中国進出に遅れをとったアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイにより門戸開放宣言を出し、中国の門戸開放機会均等、翌年1900年には中国の領土保全を訴えました。

門戸開放宣言は、清朝に配慮したものではなく、アメリカの中国進出のために出されたものでしたが、列強もこれに一応賛同したため、中国分割の勢いはひとまず落ち着きます。

変法運動

日清戦争の敗北により、それまで行われていた洋務運動が挫折しました。

列強の中国分割の勢いが激しくなる中、中国の政治家や知識人らは危機感を覚え、日本の明治維新を参考にした近代化の必要性を痛感します。

洋務運動は中体西用のスローガンのもと、伝統的な政治体制を維持したまま行われましたが、列強と渡り合うためには、中国の伝統的な専制君主体制の変革を含む議会政治立憲君主制の樹立が必要でした。

1890年代から行われた近代化のための一連の運動を、変法運動(変法自強)といいます。

変法運動は、公羊学派に属する儒学者で政治家の康有為・梁啓超らが中心となり行われます。

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(康有為)

公羊学とは、儒教の経典である『春秋』の公羊伝という注釈書を重んじ、儒学を政治上の実践にあてることを重要視していました。対照的なのが、儒学の文献研究に重きをおく考証学です。


康有為や梁啓超は、中国を変えるためには専制君主制から君民一体の立憲君主制への政治転換を図らなければならないと主張しました。

こうした主張は、若き皇帝清朝11代光緒帝の心を強く動かし、1898年6月、皇帝は反対する多くの保守派を抑え、康有為・梁啓超を重用し、政治改革を行わせます。これを戊戌(ぼじゅつ)の変法といいます。

光緒帝は同治帝の没後4歳で即位し、17歳で親政を始めるまで同治帝の母親である西太后が摂政として政治を動かしていました。


戊戌の変法により、科挙の改革、新官庁の設立、後の北京大学となる京師大学堂の設立など多くの改革案が出されました。

西太后と戊戌の政変

こうした改革が進むにつれ、清朝内の保守派は激しく反対し、長年政治権力者の中心だった西太后のもとに集まります。

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(西太后)

西太后と反対派は、同じ年の9月にクーデターを起こして光緒帝を幽閉し、政権を奪いました。

保守派が政権を奪ったあと、改革派の6人の政治家が処刑され、康有為・梁啓超は日本に亡命し、戊戌の変法はわずか3ヶ月で失敗してしまいます。

この西太后らが中心となり起こしたクーデターを戊戌の政変といい、この結果改革運動は頓挫し、清朝滅亡は加速していきます。

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