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欧米の中国侵略 5 洪秀全による上帝会の創設と太平天国の乱
著作名: ピアソラ
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アヘン戦争以後の中国社会

アヘン戦争終結後、アヘン輸入量の増加や高額な賠償金は、銀貨の高騰や税金の増額などを引き起こし、一般民衆の生活は次第に苦しくなっていきました。

中国社会が混乱する中、開港による経済上の変化が多くの失業者や流民を発生させ、治安の悪化や会党(秘密結社)の活動が活発になりました。

洪秀全と上帝会

このような時代背景の中で、洪秀全(1813〜1864)が上帝会(拝上帝会)というキリスト教に基づく宗教組織を広西省桂平県で創設します。

洪秀全は、客家(僻地に住んでいた人々)の出身で、科挙試験に失敗し挫折していたころキリスト教に目覚め、1843年に上帝会を創始し、広西省を中心に多くの信者を獲得します。上帝とはヤハウェという意味です。


太平天国の乱

貧しく、苦しい生活を強いられていた民衆は次々と上帝会へ入信し、組織は巨大化していきました。

上帝会の信者たちは清朝の打倒を掲げ、1851年1月、金田村という小さな村で挙兵、太平天国という国号をかかげた国家建国を宣言し、洪秀全を指導者とした反乱を起こしました。これを太平天国の乱(1851〜1861)といい、中国近代史上最大の反乱となっていきます。

太平天国は、「滅満興漢」(満州人王朝=清を滅ぼし、漢人による国家を建国する)というスローガンを掲げ、清朝により強制されていた辮髪を拒否しました。また、太平天国の軍隊は、奪った物資を貧民に分配し、民衆からの略奪を禁止し、品行方正な行軍を徹底する規律を守ったため、各地で民衆の歓迎と支持を受け、巨大な集団になりました。

規律を失った清朝正規軍とは対照的に、多くの民衆の支持を受けた太平軍は、漢口・武昌を陥落させ、1853年には南京を占領します。

太平天国は南京占領ののち、ここを首都に定め、天京と改称します。また、同時期に天朝田畝制度という制度を制定し、均等な土地分配やアヘン吸引や纏足の禁止、さまざまな相互扶助の規律を決めました。

太平天国はこの他にも、上海に設置された租界を解放し、外国勢力の排除を行ったため、欧米列強を敵に回すことになりました。


太平天国の衰退

太平天国は、多くの民衆を味方につけ、最盛期には300万人を超える組織になっていました。

しかし、1855年に清朝軍の反撃で太平天国の精鋭軍だった北伐軍が壊滅し、その後首都天京でおこった政治的内紛がきっかけとなり、太平天国は次第に衰退していきます。

一方、八旗緑営など弱体化した清朝の正規軍に代わり、郷勇という義勇軍が地主や有力者を指導者として各地で組織され、太平天国を追い詰めます。曽国藩が率いた湘軍李鴻章が率いた淮軍左宗棠が率いた楚軍が有名です。

また、当初は中立を保っていた欧米列強もアロー戦争終結後は清朝の側に立ち、アメリカ人ウォードや、その戦死後イギリス人ゴードンが指揮する中国人傭兵軍の常勝軍が活躍しました。

軍団名指導者
湘軍曽国藩(湖南省)
淮軍李鴻章(安徽省)
楚軍左宗棠(湖南省)
常勝軍ウォード(米)、ゴードン(英)


こうした清朝側の反撃により、1864年に指導者洪秀全が病死し、翌年に天京が陥落、太平天国は滅亡します。

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(天京攻防戦)

太平軍の残党は各地の農民からなる捻軍とともに抵抗を続けますが、各個撃破され、鎮圧されていきます。

太平軍の残党には、劉永福が指揮した黒旗軍などがあり、劉永福はその後ヴェトナムの阮朝を助けフランスと戦い、その後の清仏戦争の際には清朝側となり戦っています。


太平天国の乱は、13年間続き、民族主義革命運動としての側面を持っていたことから、その後孫文毛沢東にも影響を与え、中国の民族運動の原点となりました。

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