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中世ヨーロッパの歴史 6 ローマ=カトリックの発展 修道院運動、カノッサの屈辱、教皇権の高まり
著作名: ピアソラ
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ローマ=カトリックの成立


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前回は封建社会についてのテキストでしたが、今回は中世ヨーロッパ社会のもう一つの重要な柱、キリスト教会の発展の歴史を見ていきましょう。

ローマ帝国末期、キリスト教は迫害を受けつつも各地に広がっていました。

この時代、キリスト教のその後を決定づける大きな出来事がありました。

ミラノ勅令(313年)

コンスタンティヌス帝により出された、ローマ帝国内のキリスト教信仰が認められた勅令です。これは、帝国内に増大した多数のキリスト教信者に対する政治的措置でした。

ニケーア公会議(325年)

コンスタンティヌス帝によって開催された、キリスト教会初の公会議です。
さまざまな教義がわかれる中、キリスト教会の教義統一が図られ、アタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端とされました。

正統教義とは、キリスト教の開祖イエスの真意や権威を正しく受け継ぐ者という意味です。アタナシウス派は神・イエス・精霊は等質で不可分とする三位一体説を主張し、イエスの神性を強く認めました。一方異端とされたアリウス派は、イエスに人性を強く認めたため、アタナシウス派と長い間対立していました。カトリックとは、普遍的という意味のギリシア語で、正統教義となったアタナシウス派から成立しました。


キリスト教国教化(392年)

統一ローマ最後の皇帝テオドシウスにより、キリスト教が国教化されました。

このように、キリスト教の権威が増す中、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの5つの有力な教会が出来てきます。

その後、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの教会がイスラム教勢力に支配されるようになると、キリスト教の首位権をめぐって、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が対立するようになりました。

この対立は長い間続き、最終的に1054年、東西教会の分裂が起こり、西方のローマ=カトリックと東方のギリシア正教会の分裂が決定的になります。


ローマ=カトリック教会の発展

西ヨーロッパ社会において、ローマ=カトリックの権威は次第に高まり、国王や有力者たちから土地の寄進を受けるようになりました。

土地を持った教会は聖界諸侯として、世俗の国王や諸侯と並ぶ勢力になっていきます。

宗教界以外の世の中を俗世といい、そこに属する人々や集団を世俗といいます。


この頃、ローマ教会内部では、ローマ教皇を頂点にして、大司教、司教、司祭などの序列が出来上がりました。これを聖職階層制(ヒエラルキー)といいます。

ところが、10世紀から11世紀ころになると、聖職者の世俗化や教会組織に腐敗が進むんですね。

例えば、聖職者が結婚し妻を持ったり、聖職自体をお金で売り買いする行為が行われました。

この聖職者の妻帯と、聖職売買は、カトリックで厳しく禁じられていた戒律を破る行為として、教会の腐敗の象徴となっていきました。

修道院運動

このような教会の腐敗に対し、内部から改革する動きが出てきます。

910年、フランスのブルゴーニュ地方に建てられたクリュニー修道院を中心に、教会刷新を目的とした修道院運動がはじまります。

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(クリュニー修道院)

刷新運動を推進したのは、次のような修道院でした。

クリュニー修道院910年、フランスブルゴーニュに設立。ベネディクト派。
シトー修道会1098年、フランス中部シトーに設立。
フランチェスコ修道会1209年、イタリアのアッシジに設立。都市での説教活動を行う。
ドミニコ修道会1215年ドミニクスが設立。都市での説教活動を行う。


これら修道院の多くは、世俗化を否定し、財産を持たず信者の托鉢に頼って活動していたため、托鉢修道会といわれます。

カノッサの屈辱と教皇権の絶頂期

こうした改革は次第にヨーロッパ各地に広まり、キリスト教会の権威も復活し、教皇庁も改革の対象となりました。

教皇選出の規定が定められ、それまで選出に介入してきた神聖ローマ皇帝など世俗の君主の影響力が排除され、教皇の持つ権力、教皇権が高まっていきます。

教皇権の高まりとともに、大司教や修道院長など高位の聖職者を任命する権限(聖職叙任権)をめぐって、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝とのあいだに、激しい争いがおこります。

この叙任権闘争は、11世紀から12世紀にかけてはげしく争われ、その後ある重大な事件がおこります。

当時、教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権に関して神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に考え直すように書簡を送っていました。しかし、皇帝は逆に神聖ローマ帝国内の聖職者を集め、教皇の廃位を決議したのです。この行動に対し、教皇はハインリヒ4世を破門したため、聖職者や諸侯は破門を解かれなければ王位を廃すると反旗を翻しました。1077年、すべてを失ったハインリヒ4世は、教皇グレゴリウス7世の許しを得るため、雪の中3日間裸足のまま祈りと断食を行い、ようやく破門が解かれました。

この事件をカノッサの屈辱といい、皇帝権に対し、教皇権の優越を象徴する出来事になりました。

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(カノッサの屈辱)

破門は、教会の共同体からの排除を宣言することです。ヨーロッパ社会に多大な影響を与えていたキリスト教会からの破門は、社会的抹殺に等しい刑罰でした。


叙任権闘争はその後も続きますが、1122年教皇カリクストゥス2世と皇帝ハインリヒ5世との間にヴォルムスの協約が結ばれ、大部分の叙任権を教皇がもち、ドイツ領内の教会の承認権は皇帝がもつという妥協案で合意し、これをもって叙任権闘争が終結します。

その後、十字軍を提唱したウルバヌス2世など有力な教皇が出て、1198年から1216年にかけて在位したインノケンティウス3世の時代に、教皇権は絶頂をむかえます。

インノケンティウス3世は、ドイツ国王オットー4世や、フランス国王フィリップ2世、イギリス国王ジョンなどを次々に破門し、屈服させ、その後も第4回十字軍を提唱するなど、「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」というキリスト教会の最高権威者として君臨しました。

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