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江戸時代の土佐藩における身分制度~上士、下士の誕生~
著作名: 早稲男
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はじめに

江戸時代、土佐藩では武士の身分が「上士」と「下士」の2つにわかれていました。
文字の通り、上士が重要な役職につき、下士は上士に虐げられるという制度が明治維新がおこるまでの約260年間続きます。
ちなみに、明治維新の立役者となった坂本龍馬中岡慎太郎武市半平太などは下士の出身です。

この上士、下士という身分制度がなぜできたのかについて説明したいと思います。

関ヶ原の戦い

この問題を語るためには、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いをみなければなりません。
御存知の通り関ヶ原の戦いとは、石田三成の率いる西軍(豊臣勢)と徳川家康が率いる東軍とが覇権を争った戦いです。

当時土佐藩を治めていた長宗我部氏は、西軍側についていました。

戦後処理

日本史上最大級の戦ですので、長引くと思われていた関ヶ原の戦いですが、西軍側から相次ぐ裏切りがでたこともあり、1日で決着がつきました。
勝利した東軍は、戦後処理として西軍の領地を没収していきます。
西軍の総大将であった毛利輝元は、その領地を1/3に減らされました。同じように西軍に加担した長宗我部氏もまた、領地没収の命を受けてしまいます。

山内一豊の登場

長宗我部氏は領地を没収され、その代わりに遠江(静岡西部)を治めていた山内一豊が土佐藩に派遣されます。
長宗我部氏は土佐藩から去りましたが、その部下や民はその地に留まっていました。そんな彼らからすれば、新しく入ってきた山内一豊の一行を快く思うはずがありません。
そうした反抗を抑えるために、山内一豊は、信頼のおける家臣を重要なポストにつけ、それ以外の家来は遠ざけて配置をしました。
つまり、山内一豊の家来が上士となり、もともと土佐にいた長宗我部氏の家来が下士として振り分けられたのです。

まとめ

下士は上士にはむかうことは絶対に許されない厳しい身分制度でしたので、下士のフラストレーションも相当たまっていたでしょう。この制度に立ち向かっていったのが、坂本龍馬であり、武市半平太でした。

上士、下士の身分制度がなければ、明治維新は起こっていなかったかもしれませんね。

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