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古代ローマの歴史 5 専制君主制とローマ帝国の衰退
著作名: ピアソラ
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3世紀の危機のはじまりと軍人皇帝時代

マルクス=アウレリウス=アントニヌスの死後、五賢帝時代は終わり、ローマ帝国は属州反乱や東方のササン朝ペルシア、北方のゲルマン人など外敵との戦いが激しくなります。

また、国内でも政治・経済的な混乱期を迎え、この時代を「3世紀の危機」といいます。

当時のローマ帝国内では、ローマ市民権を持つ人々、属州民、奴隷という差が依然として存在していました。

こうした格差により属州の不満が高まったため、カラカラ帝(在位211~217)によって212年アントニヌス勅令が出され、ローマ帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられます。

この皇帝は、好んで着ていた服装(カラカラ)から、カラカラ帝と呼ばれますが、本名はアントニヌスといいました。


この勅令によって、ローマ人とその他の外国人という区別がなくなり、ローマ帝国は世界国家に変わっていきます。

こうした中でもローマの危機は続き、235年のマクシミヌス帝の即位以降、軍人皇帝時代に入ります。

軍人皇帝時代とは、各地の軍団がそれぞれ自分たちの息のかかった人間を勝手に皇帝に擁立した時代のことです。短期間の間に帝位が頻繁に入れ替わったため、皇帝の権威が失墜しました。また、帝位をめぐる争いが続き、内乱状態になります。

この時代のヴァレリアヌス帝は、エデッサの戦いでササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、捕虜となってしまいます。ローマの軍事力が衰えていったことを象徴する出来事です。


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(シャープール1世に跪くヴァレリアヌス)

専制君主制のはじまり

この3世紀の危機を終わらせたのが、284年に皇帝となったディオクレティアヌス帝(在位284~305)です。

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(ディオクレティアヌス)

ディオクレティアヌスは軍人皇帝時代に失墜した皇帝の権威を回復するため、元首政に代わり「ドミヌス(dominus、主)による支配」という意味のドミナトゥス(専制君主制)を始めます。

ドミナトゥスの開始以降を後期帝政といい、ディオクレティアヌスは元老院を無視し、東方オリエントの専制君主のように振舞うようになりました。

官僚機構を整備し、権力を集中させる一方で、広大な領土を統治するため、東西に二人ずつ正帝と副帝を置く四分統治制(テトラルキア)をはじめます。

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(テトラルキア:濃い紫がディオクレティアヌスの統治地域)

また、皇帝の権威を高めるため、帝国領民に対し、皇帝崇拝とローマ伝統の宗教を信仰することを強要しました。

この皇帝崇拝と信仰の強要に激しく反対したのが、キリスト教徒でした。この頃キリスト教は、搾取されていた属州を中心に、ローマ帝国の広範囲で信者を増やしていました。皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒に対して、ディオクレティアヌスは最後の大迫害を行いました。


コンスタンティヌス帝の改革

ディオクレティアヌスのあと即位したのが、コンスタンティヌス帝(副帝306,正帝310~337)です。

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(コンスタンティヌス1世)

コンスタンティヌスは、副帝を経験後正帝となり四分統治制を廃止しますが、ディオクレティアヌスの政策を引き継ぎます。

まず、313年ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認します。ディオクレティアヌスの大迫害後も各地で信仰を続けるキリスト教徒の拡大を受けてのことでした。

次に、325年ニケーア公会議を開催し、キリスト教内の教義を統一します。この会議で、アタナシウス派が正統となり、アリウス派が異端とされます。

異端となったアリウス派は、その後ゲルマン民族に広がっていきます。


330年には、帝国の首都をローマから東方のビザンティオンに遷都し、自分の名前を冠したコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル→現在トルコの首都イスタンブール)に改称します。

この他にも、経済安定のためにソリドゥス金貨を鋳造したり、小作人のコロヌスの移動を禁止し、市民の職業や身分を固定化、世襲化を進めました。

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(ソリドゥス金貨)

この政策により、ローマ帝国は次第に階層社会になっていきます。

コンスタンティノポリスに遷都したことで、ローマの元老院は影響力がなくなり、コンスタンティヌスは専制君主制を確立していきます。

ローマ帝国の衰退と分裂

コンスタンティヌスのさまざまな改革によって、ローマ帝国は再び活気を取り戻したかのように見えました。

しかし、巨大化した軍隊と官僚制を維持するためには、莫大な予算が必要だったので、帝国領内に重税が課せられ、その結果各地で反乱がおこります。

また、375年には、フン族の攻撃を受けゲルマン民族の大移動が始まり、次々にローマ帝国内に侵入してきます。

379年には、最後のローマ皇帝テオドシウス(在位379~395)が即位します。

皇帝は392年にキリスト教を国教化し、ローマ帝国の統一を図りましたが、死の間際に、2人の息子にローマ帝国を分け与えます。

長男アルカディウスは東ローマ帝国皇帝に、次男ホノリウスは西ローマ帝国皇帝につき、395年ローマ帝国は正式に東西に分裂しました。

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(ローマ帝国の東西分裂)

その後ローマを首都とする西ローマ帝国は弱体化していき、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされてしまいます。

一方コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその後も繁栄を続け、1453年オスマントルコによって滅ぼされるまで、1000年以上続きました。

古代の終わり

ディオクレティアヌスのドミナトゥスの開始から古代の終わりがはじまったと言われています。
拡大を続けたローマ帝国は、征服戦争の終わりとともにパクス=ロマーナの時代を迎えました。

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戦争による属州、戦利品の獲得が難しくなり、国境防衛のための軍事費や官僚制維持の費用は大きな負担となっていきます。

農業にも大きな変化があり、奴隷の生産性が低下し、戦争奴隷の供給が減りラティフンディアは衰退します。

その後、有力者は解放奴隷や没落した農民をコロヌス(小作人)として使用するようになり、コロナートゥスという農業経営が広まっていきました。コロヌスはその後コンスタンティヌスにより移動を制限され、土地に縛り付けられた隷属農民になり、中世の農奴に繋がっていきます。

その間にもギリシアや、共和制ローマの都市的文化はなくなり、専制政治の発達とともに自由な経済活動が制限されました。その後属州反乱や都市の没落、商業の衰退など、自給自足社会になっていき、古代は終わり、中世へと変わっていきます。

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